ヒトは、自分がとった行動を後から省みて、
「僕は最初からこうするつもりだったのさ」
「私が好きだからこうしたのよ」
と、自己正当化するように、理由を後付けすることがよくあります。ほとんど無意識に。 (『都合のいいように理由をでっち上げる脳』参照)
こういった、「自分の行動が、後の自分の思考に影響を及ぼす」ということについて、社会心理学では『認知的不協和理論』として説明されます。
この理論の提唱者である、社会心理学者フェスティンガーは言います。
「人は、知識、意見、信念などの認知要素のうちの二つが心理学的に不一致、矛盾しているとき、緊張を経験する。そのとき、人はその緊張を低減させて自己の考えを適応させようとする。」
つまり、「自分の考え」と「自分がとった行動」との間に矛盾が生じたり、「自分の考え」と「新たな知識」が矛盾しているといった時に、認知における不協和(不快感)を感じるわけです。 そしてそのとき、自分の考えを変化させることで(または無視したり逃避したりすることで)、不協和を解消しようとするのです。
例えば、喫煙について見てみましょう。
喫煙者は、「タバコを吸う」という行動により、 「喫煙が自他共に身体に害を及ぼす」という知識と、 「自他共に健康でありたい」という信念との間に不協和を感じます。
そしてこの不協和を解消するために、
・「喫煙者でも長生きする人もいる」と、喫煙が身体に悪いという理論を屁理屈で否定する。
・「そんなこと知るか!」と、その科学的事実を無視する、現実逃避する。
・「別に長生きなんかしたくないから」と、健康でありたいという認知をねじ曲げる。
といったように、自己を正当化するように理屈をこじつけて認知的不協和を解消しようとするのです。
他にも、
・ある理論(説)を否定する研究が示された時、その理論(説)を信じている人は認知的不協和を感じる。そこで「その研究には不備がある」と情報を否定し、都合のよい事実だけに目を向けるようになる。(これは『確証バイアス』としても紹介しました)。
・血液型診断を信じている人が、診断にそぐわない人に遭遇した時に不協和を感じる。そして「でもそういう人もいるんだよね」と、解釈の幅を広げることで、血液型診断を擁護する。
・今まで私語の多かった上司が、部下の私語を注意した時に不協和を感じる。「私の私語は会社に関係のあることだが、お前の私語は何も生まない!」と、自分の私語を正当化する。
・自分より劣る(と思っている)同僚に間違いを指摘されると不協和を感じる。「そんなこと初めから分かってるよ!」と、”指摘されて気付いた”という事実をねじ曲げる。
・「お兄ちゃんなんだから!」と育てられることで、お兄ちゃんらしくない行為をしようとすると不協和が生じてしまう。そのため、不協和が生じないよう、破天荒な行動を避ける。
・討論で自分の考え方が受け入れられない時に不協和を感じる。「あいつは頭が悪いから」と、受け入れられない理由を相手のせいにする(本当は、自分の説明力、説得力不足だったりする)
・浮気をすると不協和を感じる。「彼が私に愛情を示してくれないから」と、自分の”非”を軽減させようとする。
等々、こういった例は、挙げればキリがないほど日常に溢れています。
この不協和(不快感)は、ヒトの脳の中でも原始的な部分(旧哺乳類脳、爬虫類脳)から無意識に生じるものであり、食欲、性欲、睡眠欲なんかと同じように、生理的に反応するもの。誰にでも生じていることなのです(あなたが悟りを開いた人で、自我から解放された人物なら別ですが)。
そしてその情動を受けて、知的な大脳皮質(新哺乳類脳)が理由付けをしているのです。(新・旧哺乳類脳、爬虫類脳については『ヒトには三つの脳がある』を参照下さい)
ではなぜヒトは、そういうふうにできているのでしょう?
そこにも進化論的根拠(自己の遺伝子を永続させるという目的)があるのです。
初期の生物にとって、生き延び、子孫を増やすために最も重要だったことは、”苦”から逃れることでした。
敵に襲われる、体を損傷する、食物を失う、配偶子を得られない…、これらは全て”苦”です。
特に、厳しい自然界では、成体になるまで(生殖行為が可能になるまで)生き延びることは、とても大変なことでした。
そして、そんな厳しい環境を生き抜くために生物が獲得した行動は、「過去の自分の行動を真似る」ということなのです。
生物にとって、”誤った行動”とは、健康を害するような行動です。 そのため、もし今、自分が健康に生きているのだとしたら、自分がとってきた行動は正しかったことを意味します。 それをわざわざ、過去と別の行動を起こし、身を危険に曝す必要なんてありません。 だから「過去の行動を真似る」、そういうふうに進化してきたのです。
これは動物を観察すればよく分かります。
動物は、食糧難になったり、捕食者に頻繁に襲われたり、気候が激変したりしない限り、生活様式を変えることはありません。 彼らが過去の行動を変化させるのは、とても大きな”苦”に遭遇した時、その状況から逃れる時だけなのです。
認知的不協和にも、根本にはこれがあります。
よほどのことがない限り、自分の信念や行動を変化させるのは、生物学的に得策ではないのです。
そのため、過去の自分の行動、知識、意見、信念とそぐわないことをすると、緊張(不快感)を感じるように出来ている。 そこには”現状維持”という強い欲求があるのです。
そしてさらに、遺伝子の永続で最も重要なのは”生存”ではなく、より良い遺伝子を残すための”生殖”にあります。
つまり、出来るだけ他者より優位に立ち、 出来るだけ優れた配偶者を、出来るだけたくさん獲得することが第一なのです。
“一貫性の無さ”は、生物学的にも、社会的にも善くないこととされ、他者からの自分の評価を下げることになるのです。
そのため、「いやいや、最初から一貫して、僕はそう考えていましたよ」と、都合のよいように認知を変化させるのです。 (このように認知を変化させて自己正当化する男性の方が、自己正当化しない男性よりもモテるという調査報告まである!)
上記の認知的不協和回避の例を見ると、 その全てが自己正当化であり、自分の社会的地位を下げまいと必死になっていることが分かると思います。
誰にでも、
『自分は正しい…、みんなから褒められたい…、もっとモテたい…』
という無意識の深層心理がある。それがヒトなのですね。
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うんうん…。
いやはや「自分が正しい」と思ってなければ辛いですよ。
私なんか、そうやってなんとかバランスをとってやってる気がします。
多分、みんなもそうなんだろう…と感じます。
「自分が正しい」と思っていなと辛いと感じる。僕もまさにそれでしたし、そういう人を否定や非難をするわけではありませんが、
それに固執してしまうことは、さらにストレスが大きくなってしまうと考えています。
僕は、もし自分の理論が間違っていることを示す情報が出てきたときは、「今まで間違ってました」とあっさり言ってしまえる人になりたいんです。
多分、一般的ではないと思います(笑)
こういう時にこう考えることってあるでしょう?そこにはそういうメカニズムがありますよ〜 って知ることで、気づけるきっかけになる。 「認知的不協和理論」のメカニズムは真っ当だけど、それに気づくこともなく従うことはやはり理性的ではないよね。
本当にそう思います。とっても真っ当で、大抵有益で、そのメカニズムを知っても知らなくても同様に働くシステムなのですが、「気づくか気づかないか」ということには、その後の判断に大きな違いが出ると思うんです。
ヒトが動物とは違って、唯一理性的な部分が「自由否定」だと思います。
そしてその自由否定は、「今感じた感情は自己正当化によるものだ。執着しているだけかも」という風に気づいていないと、それを肯定も否定もできないんですよね。
知識を得ることは、そういった判断の大きな一助になると思います。