布団の中で横になっていては眠いのが当たり前。身体を起こせば意識も起きる。なぜなら、意識は身体活動の後からついてくるのだから。
ヒトは、「自分には自由な意思がある」と感じており、「自分の意思で身体を動かしている」と考えています。しかし、前回の投稿で説明したように、ほとんどの行動が「心(意識)より身体が先行している」というのが実態です。
意識を作り出している大脳皮質(新哺乳類脳)は、皮質下(旧哺乳類脳、爬虫類脳)から生じた情動を、後から理由付けしているだけですから、そこには意識的な自由意思というものが存在しないのです。
こういう話になると、必ず問題になるのが犯罪です。
「この殺人は、僕の意思で行ったのではないのです。僕が意識的にやったのではなく、身体が勝手にやったことなのです。これは脳科学が証明しているのですから。だから、僕に罪はないですよね?」
これは難題ですが、その答えを示唆する事実も存在します。それは、”自由意思”は存在しないが、”自由否定”は存在するということです。
分かりやすいように、『自分は頑張っていたつもりなのに、上司に叱られる』という状況を考えてみます。
「なんだこのやる気のない報告書はっ!?」
すると大抵、一秒も待たずに心拍数や血圧の上昇、瞳孔が開くなどの身体反応が生じ、無意識に”怒り”の情動が生じます。ここには自由意思は存在しません(意識的に怒ったわけではないということ)。
しかしそこで、怒りの情動を感じつつも、新哺乳類脳はその情動を否定することができるのです。「頑張ったと思っていたが、もっと違うやり方があったかもしれない。上司の指摘を頭ごなしに非難するのではなく、受け入れて今後の糧にしよう」といったように。
情動が生じた後、「俺だって頑張ってんだよ!こいつむかつくなー!」と、その情動をそのまま受け入れて増幅するか、
「この怒りを増幅させたところで、何のメリットもない」と、その情動を否定して鎮めるか、意識的な自由があるとすれば、そこなのです。
犯罪の意思が生じるのは仕方がないことです(おそらく、大なり小なり誰にでもある)。しかし、それを頭の中で否定して止めることができる。それが自由否定なのです。
「栄養が足りなくなったら食事をしたくなる」「疲れたら眠くなる」などと同じように、旧哺乳類脳や爬虫類脳から沸き起こる身体反応や情動、欲求が生じるのを制御できるものではありません。
しかし一方で、ヒトをヒトたらしめている大脳皮質(新哺乳類脳)は、皮質下の脳(旧哺乳類脳、爬虫類脳)から生じた情動や欲求を制御し返すこともできるのです。
ヒトは、他の動物と大脳皮質(新哺乳類脳)の比率が違う。大脳皮質は拡張していき、ある臨界点を超えた時、大脳皮質が皮質下の制御から解放され、自由になり、逆に皮質下をコントロールし返すくらいのところまで発達した。大脳皮質の活動、つまり高度な知的活動によって本能的な行動欲求を制御できるようになった。そして、内省や理性や社会性といった人間らしい性質が生まれる(『進化しすぎた脳』より)。
倫理的・道徳的に社会生活を営む上で、自由否定はとても重要です。ヒトが人間的に成長するというのは、自由否定が上達することと絡んでいるのです。
ヒトには自由な意思が存在しません。すでに生じている身体反応や情動、欲求に対し、それを受け入れるか、否定するかしかないのです。しかし、大脳皮質(新哺乳類脳)は知的活動によって、情動を制御できるにまで発達しています。
つまり、「情動を変えたいのなら、まず行動すればよい」ということを学習し、実行することができるのです。
苛立ちを感じていても、悩みや不安を抱えて気分がすぐれないとしても、意識的に笑顔を作り、背筋を伸ばし、明るく挨拶したりすることで気分は晴れていきます。
これは格言やことわざではありません。実証された科学です。
この事実は、とても有益な知識の一つではないでしょうか。
→次の記事『”先延ばし症候群”を改善する方法』へ
→コラム一覧へ
大脳皮質だの皮質下だのいう2000年以上前から「え、知ってるよ。だからそういったじゃん」ってお釈迦様が言ってますww
知識としては知っていても「自分なんて存在しない」とかまだまだわからないよねぇ
ほんと、それがすごいとこです。お釈迦様。
僕はとーっても理屈っぽいので、科学的な確証がないと信じられないタチなのですが、仏道はことごとく科学的なんですよね。すばらしいです。
世界の科学者にブッディストが多いのも頷けます。
「自分なんて存在しない」。これはなかなか理解しがたいですが、瞑想を続ければ何かが開けるような気はしてきました。
まあ、気がするだけですがww