天の眼(てんのまなこ)
人の正邪善悪を監視する天の眼力(デジタル大辞泉より)
前回記事、『効果的なしつけとは?(1/2)~条件反射』の続きです。
しつけにおいて、「親の前ではよい子だが、外では悪い子」とならないようにするにはどうしたらよいのでしょう?
今回は、その点について考察していきます。
ではまず、この研究報告から見ていきましょう。
こちらを見つめているポスターを貼っておいたケースと、花のポスターを貼っておいたケースを比較した。
すると、見つめているポスターを貼っておいたケースにおいて、人はより道徳的な行動を示した(Eye see you – Press Office)
こういった研究はいくつかあり、「ゴミをきちんと片づけるようになった」「募金額が増えた」「他人に譲る行動が増えた」などの結果が出ています。
ちなみに被験者は「ポスターが貼ってあって誰かに見られている気がしたから善いことをした」なんてこれっぽっちも思っていません。そのポスターにすら気づいていなくとも善行をするようになるのです。(無意識による、人を動かす力は強力です!)
実際に人が見ているのではなく、ポスターでも効果があるというのが興味深い点です。
何であれ、人は、「誰かに見られている感」があると、無意識に善い行いをするようになるようです。
それなら、いつでも、どこにいても、誰かに見られていると感じているのなら、人はいつでも善い行いをするようになるのではないでしょうか?
しかもその誰かが、いずれ自分に裁きを与える絶対的な力をもっているとしたら…
以前の日本は、天国と地獄という概念がもっと浸透していたように思います。
なんでもお見通しの閻魔王(えんまおう)、お地蔵様、そして万物に宿る神様…、
僕も子どもの頃、おばあちゃんに、「おてんとさまが見ているよ」なんて言われていたような。
地獄(天国)の思想は犯罪発生率を下げることができる。国際的な調査により、地獄の存在を信じるかどうかで国の犯罪率を予測できることがわかった。(Belief In Hell Predicts a Country’s Crime Rates Better Than Other Factors)
これは法的罰則よりも効果があるようです。
その理由は、
いくら悪い行いには法的罰則があるとしても、「見つからなければ罰則を受けなくてよい」というのが現実だからです。
だからこそ、「人智を超えた存在によって、監視され、かつ見護られている」という感覚が大きな意味を持つのだと思います。
(世界中に同様の宗教的観念が存在する理由の一つは、人を道徳的に導くにあたって、こういった感覚が重要だったからなのかもしれません)
ではここで、うちの子に読み聞かせている絵本を紹介します。
『地獄』
五平は、ある明け方、地の底へ引きずり込まれた。
鬼が二匹やってきて、「われらは、地獄の閻魔王(えんまおう)の使い。おまえを、地獄へ連れて行く!おまえは、死んだのだ!」といって五平の手をつかんだ。
三途の川をわたり、閻魔王の宮殿に連れていかれ、閻魔王の裁きを受ける。
嘘をついても無駄だ。閻魔王は全てを映し出す浄玻璃の鏡をもっているのだから。
「五平!おまえの犯した罪が消えるまで、針地獄におって償いをせよ!」
五平は「ああ、あの時に…」と心から悔やんだ。
その時、お地蔵様が現れ、「確かにおまえは悪いことをしてきました。けれど、溺れた子どもを助けるという善いことをした。そして、おまえは今、自分の罪を心から悔やみました。」と言い、閻魔王にお願いをする。もう一度、もとの世に戻してやってはくれないかと。閻魔王は言う。 「よろしい。今度だけは生き返らせてやろう。だが、行いを改めなければ、この次こそ地獄だぞ!地獄がどんなところか、とっくりと見せてやろう、もとの世に戻って、皆のものに話してやるがよい。」
すると、五平の前に地獄が開けた…
『なます地獄』
生き物の世話を怠けて殺したものは、生きながら身体を切り刻まれる。『釜茹で地獄』
嘘をついたり、約束を破ったものは、釜茹で地獄で煮られる。『火あぶり地獄』
盗みをしたものはこの地獄に落とされる。『針地獄』
いい子ぶって告げ口をしたり、他の人をバカにして、悪口を言ったりしたものは、針地獄に落とされる…
そしてこの本の極めて重要なメッセージが下記です。
命を粗末にするな!命を大切にしろ!と。
死の恐ろしさを伝えることは、同時に生命の尊びを学ぶということです。そしてそれはまた、他者への思いやりや慈愛の心を学ぶことに繋がるのです。
僕は子どものころ、神様の存在を心の底から信じていたわけではありませんが、地獄は恐れていましたし、誰も見ていなくても「神様は見ているのかも」という意識はありました。
そのため、非道徳的な行動をとると、ばちがあたる気がして、確かに不快感を感じていたのです。
おそらくそれにより、悪行と不快感の条件付けが強化されていったのでしょう。
地獄の絵本は読んで泣いちゃう子もいます。絵がすごいので。
そんな、恐怖で脅してまで!と感じるかもしれませんが、前回の条件反射の記事を思い出して下さい。
悪い行いを改めるためには、一貫して「悪行」と「不快感」を結びつける必要があると説明しました。
ですが、親の目が届く家庭内ではそれができても、一歩外に出るとそれができません。つまり、一貫して悪行と不快感を条件付けることは、人間には不可能なのです。
(※僕が子どもの頃は、悪いことをしていたら、近所の大人に「コラッ!」とか言って叱られていましたが、最近はそれもほとんどないように思います)
しかし地獄の概念は、親の目ならぬ“天の眼”として、一貫して子どもに悪行と不快感を結びつける手助けとなるのです。
いずれ大人になって、地獄を信じなくなり、神を信じなくなろうが、子どもの時に条件付けされたこの感覚(善行と快感、悪行と不快感の条件反射)は無くならないでしょう。
ネット社会(誰にも見られず、個人を特定されずに好きなことが言える社会)となり、最も不快感を覚えるのが匿名による非道徳的な言説です。
地獄の概念がもっと広まれば、匿名性のネット社会ももう少し道徳的になるのかもしれません。
絵本地獄―千葉県安房郡三芳村延命寺所蔵(Amazon.co.jp)
次回は、しつけと条件反射の繋がりで「ゲームは人殺しを育成するか?」について考察します。
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目に見えないものにどれだけ気持ちを配れるか…?
今日、こどもが「なんで息って白いの?」と外に散歩に行った時に聞かれました。
息は生まれてから死ぬまで、それこそ四六時中しているわけですが、目に見えるのはある一定の条件が揃わないと見ることができません。
夏の暑い日だって息は口から放出されているわけですが、見ることはできません。
しかし、そこに確実に存在します。
目に見える物事だけに気をとられていると、つまづいてしまうことも、そこに「目に見えないもの」の存在を感じるだけで、また違った視点が生まれるのではなかろうかと思います。
地獄もまた目に見えないことですが、感じることはできます。
そして天国も…。
人生の意味も目的も、目には見えませんが、子どもたちにその何かを感じとるような感受性を養わせてあげたいなと思います。